がん哲学&がん哲学外来〜がん医療の架け橋〜
樋野興夫(ひの・おきお)順天堂大学医学部教授
島根県生まれ。愛媛大学医学部卒。癌研病理部、アインシュタイン医科大学、Fox Chase Cancer Center研究員、癌研実験病理部長などを経て2003年より現職。肝癌、腎癌研究の功績で日本癌学会奨励賞、高松宮妃癌研究基金学術賞などを受賞。2008年、順天堂医院に「がん哲学外来」を開設。NPO法人「がん哲学外来」理事長。著書として「がん哲学外来入門」(毎日新聞社)「がん哲学外来の話」(小学館)「がん哲学」(to be 出版)など。
日本人の2人に1人はがんに罹患し、3人に1人はがんで死亡すると言われるように、がんは誰もが罹りうる疾患である。このような現状を踏まえ、2007年にがん対策基本法が施行され、がん対策推進基本計画には、すべてのがん患者・家族の苦痛の軽減・療養生活の質の向上を目標とし、その1つにがん医療に関する相談支援・情報提供が挙げられている。
しかし、実際の医療現場は医療の高度化と人手不足で多忙を極め、必然的に患者に病状や治療の説明をするだけで手一杯となり、患者の生き方や人生に関心を持ったとしても、それらについて患者と十分に対話する時間的余裕がないのが現状である。がん患者はがんとともに生きていく上で、病気を治すことだけでなく、人とのつながりを感じ、尊厳を持って生きることを求めている。医療者の「真実な対話」が求められている。
その表れが、一般的ながん相談やセカンドオピニオン相談ではなく、「対話型」の『がん哲学外来』を自ら選択して訪れる者がいることである。実際、1時間程度のわずかな面談時間でさえ満足し、快活な笑顔を取り戻した患者・家族が多い。『がん哲学外来』のモットーとして、「暇げな風貌」と「偉大なるお節介」がある。「暇げな風貌」とは、たとえ忙しくても、そのことを表に出さず、「暇げな風貌」をした人が、ゆったりとした雰囲気で患者と対話できる資質のことである。「偉大なるお節介」とは、「他人の必要に共感すること」であり、「他の人々に注意を向ける」ことである。
がん患者の苦悩や気がかりに耳を傾け、共感することで、患者の忘れかけていた自尊心を蘇らせる。殺伐とした現代に、一歩踏み込んで対話し、人間存在の根幹に触れる「なすべきことをなそうとする愛」で、患者の希望や欲求の傾聴を実践するものである。「スケールの大きい、愛情溢れた、深い見識と品性」を兼ね備え、「賢明なる寛容性」を持って「静思から得られた結論」を語る「存在」が「がん患者」にも必要であろう。
「病気は単なる個性」である。「がん」の現実にとっては困難な提言であろう。しかし、人間は、あらゆる局面において「個性・多様性」を尊重する「社会習慣」を養わなければならないと、つくづくと思う今日この頃である。「集団生活であったが集団行動ではなかった」(吉田富三: 1903-1973)と「多様性を重視」する「顕微鏡でがん細胞を見る」病理学者にとって当然の帰結である。
『がん哲学外来』とは、生きることの根源的な意味を考えようとする患者と、がんの発生と成長に哲学的な意味を見出そうとする病理学者との「対話の場」である。「暇げな風貌」と「偉大なるお節介」でもって、がん患者・家族の話を傾聴し、少しでも笑顔を取り戻して、がんであっても自分の人生を生ききることができるようにする支援の一翼を担う。
『がん哲学外来』は、社会の隙間を埋め、がん対策基本法や基本計画が掲げる「患者主体の医療」の事前の舵取りになると考える。医療崩壊の危機が盛んに言われる今日、『がん哲学外来』の存在は、時代の要請であると考える。『がん哲学外来』の普及を目指し、がん患者・家族が、がんであっても「勇ましき高尚なる生涯」を送れるようにサポートすることを願うものである。
単なる「情報提供」ではなく、「がん相談」の在り方を落ち着いて考え、がん患者の状態に応じた多様性のある場を提供することは、「がん医療の隙間」を埋める「懸け橋」となろう。『がん哲学外来』の存在が、具象的なモデルの一助となれば幸いである。
人間の「誕生と成長」でなく「哀れとむなしさ」を起点する病理学者は、「真理そのものに悲哀性がある」ことを学び、「自ら悲哀をその性格とする人たらざるをえない」(新渡戸稲造: 1862-1933)。これが我が人生の原点であり、「がん哲学&がん哲学外来」の根拠でもある。
病気と私たち
暉峻淑子(てるおか・いつこ)埼玉大学名誉教授
大阪府生まれ。日本女子大学文学部卒業。法政大学大学院博士課程修了。埼玉大学教授、ベルリン自由大学、ウイーン大学客員教授を歴任。専攻は生活経済学。国や埼玉県などで経済、教育、社会福祉、環境など多方面にわたる分野での委員会委員を務める。著書として「豊かさとは何か」、「豊かさの条件」、「格差社会を超えて」、「いま、教育を問う」(共に岩波書店)など。NGO国際市民ネットワーク代表でユーゴスラビア難民支援。
先進国でも、貧困国でも、共通する人間としての願いは 1)飢え死にしないこと、2)病気やけがをした時、適切な医療が受けられること、3)無知から開放されるため、十分な教育がうけられること、の3つです。それは、生きるために、なくてはならない人間社会の土台だからでしょう。
この3つはお互いに関連していて、栄養状態が悪ければ、病気になりやすいし、過労死するほど働かされれば、体をこわす。病気になれば働けないから貧困に陥る。教育によって能力を高めなければ、職と収入を得ることができない。それだけでなく、教育は自分の健康状態や働き方を管理し、家族や社会とのかかわりの中で、物事を判断していく基礎になります。社会保障や公衆衛生、医療や介護を改善していくためにも、社会教育は重要な役割を持っています。つまり、上記の3つのうち、どれか一つが欠ければ、他の2つも成り立たない関係にあるのです。
ですから国家の第一の役割は、無償の義務教育や、医療保険、生活保護の制度によって、国民の生活を支えることです。生き物にけがや病気はつきもので、無病息災に見える人も、老いを迎えれば、医療や介護が必要になるでしょう。十分な社会保障には、財源が必要ですが、貧困な人は税金や保険料を払うことが出来ません。現在のようにリストラや失業、不安定で低賃金の人々が増え、中小企業が倒産すると、税金による財源はいよいよ乏しくなります。日本は経済指標でみると、世界第2位か3位の豊かな国です。失業者やホームレスや、健康保険をもらえない人や、飢えても生活保護を受けられない人、3万人を超える自殺者がいるのはなぜでしょうか。先進国なのに公益に奉仕する善意の財団が少ないのはなぜでしょうか。
経済成長は、国民の生活の質を高め、本当の豊かさを実現するためのものであるべきです。社会保障は社会格差を修正する役割を持っていますが、老人の3人に一人ががんで死ぬ時代に、がん研究や診察のための予算も十分でなく、治療を受ける患者は、専門病院にあふれ、地域に適切な病院がなく、誰もが十分な診察や日常のケアが受けられる状態ではありません。病院にたどりついたとしても医師や看護師はいつも忙しく、ゆっくり話し合うこともできません。「人の命と生活を第一に」という政治の流れが本物になっていくことを期待しますが、人間にとっての健康とは、病気でないだけでなく社会の中で人間らしく生き生きと暮らせることです。そのためには、私たちも知る努力と、お互いに支えあい補い合うことの喜びを幸せと感じる、よき市民になりたいものです。
コーディネーターとして
橋本せつ子 ㈱バイオビジネスブリッジ代表取締役
福岡県生まれ。九州大学理学研究科修士課程修了。ドイツハイデルベルグ大学博士課程修了。ヘキストジャパン、ファルマシア バイオテク、ビアコア株式会社などに勤務。国内外の幅広いネットワークを駆使して、サイエンスからビジネスへの懸け橋となることを目指し、ベンチャー企業の創業支援をする会社を設立。著書に「生体物質相互作用のリアルタイム解析実験法」「Biacoreを用いた相互作用解析実験法」、(共にシュプリンガー)など。
製薬企業の研究職を皮切りにバイオテクノロジー産業で20数年間仕事をしてきた者として、「がん」は常に身近な存在でした。しかし、それはあくまでも研究の対象としての「がん」であり、自らの生活からは遠く離れた存在でした。
その自分自身に大腸がんが見つかり、ある日突然「がん患者」になったのは10年前のことです。それまでに大きな病気をしたこともなかったため、入院、手術とすべてが初体験の連続でした。臨床の現場を自ら体験することにより、過重な労働に耐えながら患者を救おうとするスタッフのプロフェッショナルな仕事ぶりを目の当たりにしました。しかし、基礎研究で行われていること、そこで得られたがんの知識と臨床の現場の実践には大きな隔たりがあるということも感じました。
さらに一番難しかったのが医師とのコミュニケーションであったことも事実です。次にどういうことが起こるのかという「患者」として一番知りたいことについて、納得のいく情報を得ることができないという焦燥感を感じました。それから10年が経ち、今こうして元気に仕事をすることができるようになった者として、がん医療を取り巻くさまざまな問題、患者の立場を大切にする医療の在り方などについて皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
臨床腫瘍研究所紹介
金子安比古(かねこ・やすひこ)研究所長
群馬県生まれ。北海道大学医学部卒。同医学部小児科医員、同理学部染色体研究施設研究生、埼玉県立がんセンター病院血液科医員、シカゴ大学血液腫瘍内科研究員、埼玉県立がんセンター病院化学療法部長などを経て2004年より現職。埼玉大学大学院理工学研究科連携教授。1997年、神経芽腫の研究で小児がん研究奨励賞を受賞。小児がんの研究と血液がんの臨床に従事。「癌遺伝学の夜明け」(日本学会事務センター)を分担執筆。
がんにかかる人の数は国民の半分になり、がんは身近な疾患になりました。当センターを受診した患者さんの半分は治り、残り半分は残念ながら治りません。この厳しい現状のもと、私たち研究所の職員は「将来のがん医療を担う」、つまり、「現在治すことのできない難治がんを研究し、新しい予防、診断、治療法を開発して将来は治す」を目標にして働いています。病院職員は、次々と開発される新薬の臨床研究により治療成績の改善をめざしていますが、私たちはがんの発生の原因になる遺伝子や蛋白質の異常を調べ、どのような仕組みでがんが発生するのかを研究しています。難治がんを治すには、すぐに役立つ研究と同時に遠回りであっても、発がんの根本を見据える研究が重要です。最近の研究所の注目される研究成果として、発がん予防につながる新たな大腸がん抑制機構を発見したことがあげられ、科学誌に掲載されると共に県政ニュースにおいても取り上げられました。
現在の日本は、豊かさの土台である生存、医療、教育など人間社会の基本的条件がおびやかされており、がん研究もその影響を受けています。研究は、「未知を既知に変える」という研究者の喜びがモチベーションとなり発展します。暉峻先生が述べられている「生きるために、なくてはならない人間社会の土台」を作ることと、「将来のがん医療の土台となる研究活動を支える環境」を作ることは密接に関係しています。
個人の視点から、がんに直面した時にどのように対処したらよいのか、社会的視点から、どのようにすればがん医療を充実できるのか、研究はどのようにがん医療にかかわるのか、「第1回埼玉県民がんフォーラム」がこれらの課題に取り組み、解決するきっかけになればと期待しております。また、会場のロビーに当研究所職員が行っている研究をポスター展示により紹介しておりますので、皆様のご意見などいただけましたら幸いです。
音 楽 演 奏(ボランティア)
石井 修(テノール)
国立音楽大学声楽科卒業。多くのコンサートにソリストとして出演。1998年よりリサイタルを毎年開催する傍ら、発声を中心に後進の指導にあたる。
石井英子(ピアノ)
武蔵野音楽大学ピアノ科卒業。声楽、器楽の伴奏者としてコンサートなどで活躍。ピアノ演奏の指導や合唱の指揮を務める。2006年4月、読売新聞「生きる」〜緩和ケア病棟から〜のシリーズで取り上げられ、反響を呼んだ。
石井紀子(ヴァイオリン)
武蔵野音楽大学器楽学科卒業。在学中よりバロック音楽に興味を持ち、独学にてバロックヴァイオリンの奏法を取得。
現在、グループで埼玉県立がんセンター、癌研有明病院、栃木がんセンター、川口市立医療センターなどで定期的に音楽演奏(ボランティア)活動を行なっている。


